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じゃまをして、あいてのボールをうばってしまえ [サッカーの基礎]

攻撃を主眼にすえている。
が、それで、よしとはしない。
ひいてまもる、ことはしないだけである。
まもりからはいる、とおとなたちはかるがるしくいう。
それはどういうことを意味するのか。
わたくしはちびっこたちに問う。
それは先制をゆるすかんがえではあるまいか、と。

攻撃は防御なりという。
至言である。
こちらが攻撃しているときはあいては攻められない。
まして稚拙ならば、攻めに集中すべきではないか。
攻めづかれという。
なぁに、つかれにくくすればよいだけのこと。

わたくしはちびっこたちに、じゃまをしよう、とつたえている。
あいてがボールをもっているとき、
さぁ、じゃまをしよう、ボールをとってしまおう、
と檄(げき)をとばす。
ひとりでとれなければ、ふたりでいこう。
あいて陣地で、攻勢をかける。
プレッシングサッカーの実践である。
じゃまをすることにたけたちびっこたちは、あっさりとボールをうばい、ゴールへパスをくりだした。
なんどもなんどもくりだした。
わたくしがかんがえるサッカーである。





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力をぬいて、精確に蹴ろう [サッカーの基礎]

サッカーの基礎というと、まず技術をおもいうかべるだろう。
が、足はちいさいし、脚力はない。
そんなちびっこたちにインサイドキックをおしえてもできるはずはない。

力いっぱい蹴るちびっこに、力をぬいて蹴ることを意識させる。
地面からうかないように、グラウンダのゴロを蹴る。
いまはへっぽこだけれども、それは筋力がそなわっていないから。
あせらないこと、
ひととちがっていてとうぜんということ、
きにしないこと。
いまのうちに精確に蹴ることをおぼえてもらいたい。
精確に蹴る、心がまえをもつようにうながしている。

どういう蹴りかたがいちばん精確にできるか。
ちびっこに問うといい。
足をつかっていれば、どこでもいい。
かれらの得意を意識させること。
それでいい。
精確に蹴られる方法があったらをおしえてもらう。

ただし、インサイドキックの基本はおしえるべきである。
いまはできないけれども、やはりいちばん精確に蹴る方法はインサイドキックかな、と。
それと同時に、おかあさん、おとうさんにつたえることはわすれてはなるまい。
インサイドキックの基本動作をおかあさん、おとうさんにただしくつたえること。
これこそが重要であるとわたくしはかんがえる。





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なぜ監督コーチはえらそうに椅子にふんぞりかえるのか [サッカーの基礎]

ちびっこたちと河川敷グランドで練習する。
月1回の割合だ。
フルコートはありがたいが、
残念なのはそこが土のグランドだということである。
ならびの野球場の外野には芝が緑々としているのに、
いまもって球技場は土のままである。
球技場の横にハーフコート?があって、
そこは芝生だ。
手入れはあまりなされていない。

そこで50人はいたであろうか、
中学校か高校か生徒諸君がサッカーの練習にいままさに入ろうとしていた。
ちびっこたちとシュート練習をするとき、
わたくしはゴールの横に立ち、
枠をはずれたボールを追う。
ときにキーパーになったりディフェンダーになったり。
ちびっこたちに声をかけつづける。
それがわたくしの役目である。

しばしばボールは手の届かないいところへころがっていく。
そのとき、
となりで練習する生徒諸君の顔をみておどろいた。
覇気がない。
つまらない。
声は出ている。
といっても、
いつものどうでもいい掛け声のたぐいである。
そのなかにひとり、
椅子にふんぞりかえって、
しかもおっかない顔で座っている人がいた。

生徒諸君がゴールをはずすたびに、
かれは、
「いれろよ。」
でかい声でくりかえす。

わたくしは瞬間に憤りをおぼえた。
教師の、
監督コーチのいったいどこがえらいというのか。
かれらよりもさきにこの世に生まれ出ただけじゃないか。
それは教育の目的が、
年長者のいうことをきいていれば間違いはおかさない、
という思い込みが無反省のまま放っておかれてきたからである。

ちょっとだけましなものがこどもたちに教える。
こどもたちよりもすこしだけ物事について知識あるものが、
知識の少ないこどもたちを教える。
それがほんとうのところなのじゃないのか。

教育への期待とはその程度であるべきだし、
その認識でたりる。
よき先輩、
兄貴分にはなりえても、
頭ごなしに命令をだせる資格なぞあろうはずがない。

これは軍事教練の悪しき風土が脈々と、
しかも堂々と跋扈(ばっこ)するとしかいいようがない。
だからニッポンは戦争に負けたのではなかったのか。





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ちいさな失敗を放置せず、ちいさな成功は意識しよう [サッカーの基礎]

ボールを蹴る、とおなじくボールをうけることもサッカーの根幹である。
あいてがちかくにいなければ、雑でもよい。
あいてにうばわれない範囲にとどめればそれでよし。
あいてがどこにいるか、
ボールのうけかたはあいてとのその距離如何である。
あいてとの距離がちかくなればなるほど、精度がもとめられる。
あいてがピタッとくっついているときこそ、足に吸盤がついているかのごとく、ボールを制御しなくてはならない。
トラッピングは、ただボールのいきおいをとめるにあらず。
トラッピングは、どのような状況で最適な方向にボールを据えるか、を問うものである。
最適な方向とは、つぎの動作にむだなくつなげられる位置、そこに据えることをいう。

面とむかう1対1の練習では、ただまえに据えるだけでよしということになる。
それでは意味がない。
つねに活きた球で、つぎの動作を仮定しながら訓練する。
うまくいったときは「よしっ」と声をあげる。
もしうまくいかなければ、理由をたしかめる。
なぜうまくいかないのかをかんがえる。
そして再度ためしてみる。
うまくいったときのコツを意識する。
その訓練をする。
それだけで練習の密度は濃くなっていく。
失敗はむしろ歓迎すべきものなのである。

ひとつのちいさな失敗を放置しない。
ちいさな失敗は理由をたしかめやすい。
理由はひとつかふたつ。
ひとは、いちどに3つの失敗をかさねることはできないのではあるまいか、とかんがえるからである。

ちいさな成功を意識することには積極的であるべきだ。
その重層が自信を構築するからである。





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ボールをとめるには [サッカーの基礎]

藤子不二雄Aさんの漫画、プロゴルファー猿。
そのなかで、主人公がスーパーショットをくりだす。
漫画はスーパショッツだらけなのだろうけれど。
それはグリーンにはためくピンをめがけてうつもので、ボールは旗にからまると、ポトリとカップにおさまった。
トラッピングとはまさにこのことではなかろうか。
スポンジをおき、高いところからボールをおとす。
水をふくまないスポンジはボールを反発させる。
が、しめらせたスポンジの反発はすくない。
このイメジ。
反動をすくなくおさめる。

あいてのボールをうばうにはトラッピングのときをねらう。
ミスがおきやすい、そのときをねらう。
ミスがおきやすいからミスをしないように、なんどもなんどもくりかえす。
それを練習というにすぎない。

あえていう。
なんべんでもいう。
サッカーは単純なスポーツである。
難しくしているのは、我々である。
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SMAP 解散 Sports Music Assemble People [ことば]

うたはへた。
おどりもそろわず。

木村拓哉さんが突出していたのかな。
ついで稲垣吾郎さん。
でもわたくしは中居正広さん、香取慎吾さん、草彅剛さんをかっていた。

ヴォイストレーニングの効果はあったのか。
なかったのだろうか。
いまもってうたはへた。
おどりだって中居正広さんが速すぎで、いまいちあわない。

もしいまどこか海外のオーディションにでたとして、
この5人組、
失格はまぬがれないのではなかろうか。
それほどにつたない。

いったいなにがかれらをニッポンを代表するというスターにしたのだろう。
ただ、コメディアンとしてならば、並以上だとはおもうけれど。





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芋だけのカレー、ニンジンだけのカレー、たまねぎだけのカレー [カレー大好き]

芋だけのカレーでいい。
ニンジンだけのカレーだっていい。
もちろんたまねぎだけのカレーだっていい。

わたくしたちはとらわれすぎている。
すでにある事柄に、
とらわれすぎている。
カレーの具材がおおすぎることに。
だれもかえりみない。

なぜだろう。
それはうたがわないからだ。
その訓練がなされていないからだ。
かんがえる訓練をしていない。
これは大きな理由だろう。
かんがえる訓練をおそわっていない。
ゆえの思考停止。

とらわれない、
とらわれないぞ、
という意識をもちつづける、
というのではなく。
結論はすみやかにだす訓練。
おのれがだした結論。
で、
これがおのれの結論か、
と自問する。
まちがいか,
否か、
は問題ではない。
それでいいのか、
と自問する習慣、
くせ。
それをつちかう。

それが肝腎なのではなかろうか。
そしておおくのニッポン人が欠落していることこそ、
この反芻(はんすう)ではなかろうか。





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魯迅、灯火漫筆におもう [ことば]

魯迅に灯火漫筆という文章がある。
魯迅はそこで当時の状況をふまえ中国の歴史についてのべる。

「中国人は昔から、人間の価値をかち取ったことがない。たかだか奴隷にすぎなかった。そして今もって同様である。」と書いた。
「いや、奴隷以下であった時代も、珍しくなかった。」という。

きれいごとの好きな学者たちが、どんなに飾り立てて、歴史を書くときに、「漢族発祥の時代」「漢族発達の時代」「漢族中興の時代」などと、立派な題を設けようと、好意はまことに有難いが、措辞(そじ)があまりにもまわりくどい。もっと、そのものズバリの言い方が、ここにある―
 一、奴隷になりたくてもなれない時代
 ニ、当分安全に奴隷になりおおせている時代
と魯迅は書いた。

ひるがえってわが邦はどうだろう。

明治以降、太平洋戦争がおわってもなお、

 一、奴隷なのに、それにきづいていない時代

が延々とつづいているのではなかろうか。





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