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サッカーがうまい、とはどういうことをいうのか 1 [サッカーの基礎]

ちびっことサッカーをしている。
そのときのおとなの反応が或るパターンを逸脱せず、
多様さがないことにきづく。
うまい、
とおもうか、
へただとおもうか、
そのいずれかでしかないようである。
うまい、
とはどういういみなのだろう。
あのこはうまいなぁ、
というあのこは、
いったいどんなふるまいをしているのだろう。

ちびっこがおとなたちの想像をこえた仕掛けをしたとき、
おとなはそのこに、
「うまい。」という。
このときのおとなの反応はほぼひとしい。

ゴールへのパスをきめたとき。
とくにアクロバチックな仕掛けのときは異口同音。
そんなところだろう。

日々のなかで、
たとえば、
おとなしいとかんじていたこどもが、
ひとりでゴールへパスをしかけたとき。
これなぞは、
「あんなプレーをするなんて、びっくりした。」
という。
反応はあるが、
パターンをこえない。
そういうおとなたちにこどもたちはかこまれている。

つまらないのは、
つまらないおとなが多いからにすぎないのではなかろうか。

それは球しかみていないから。
ゆえ、
局面しかおえず、
全般をみわたせない。
球のないところでのちびっこの活躍をまったくみていないからではなかろうか。

そうじてこのみかた、
この邦においてはサッカーにだけあてはまるものではなさそうである。
欠落であり、
まったくの訓練不足というしかあるまい。


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哲学の役割 [ことば]

戦争を回避する。
そのために哲学は機能しなかった。
ひとが死のうとしている。
そのとき、哲学があれば、ひとは死なずにすむかもしれない。

哲学が有用かどうか、それはもんだいではない。
そも学問は有用なのかどうか。
津波がおしよせる。
それをもくぜんとしながら、学問は有用なのだろうか。
わたくしにはわからない。
逃げること。
生きのびること。
そこにこそ、哲学はあっていいのではないだろうか。
指針となるべきものをもっていてもいいのではないだろうか。
「津波といってもみんなさわいでないし、たいしたことはないだろう。」
同調性バイアスを結果的にみちびきだせたとしても、
次、おなじような状況になればおなじような行動をする。
それがひとである。
そうではなく。
ひとをたすけられるのはひとをおいていない。
だとすれば、まずたすかるひとがたすかること。
それをなによりも最善とする。

ひとをたすけようとしておなくなりになったひとはおおい。
もしあのときたすけにいかなかったら、のちの人生を後悔したであろう、というひとはおおい。
なぜか。
哲学が不毛であるから、ではなかろうか。
いのちはかけがえがない。
と反応するしか手段をもっていないから、にほかならないのではなかろうか。

もし、うごけないひとをたすけようとするときに。
たすけられるひとの命が巻添えをくわない方法こそをだいいちに想定するべきである。
ひとをたすけるにはたすけるひとがいきなければならない。
この決心をうながすためにこそ哲学は欠くことのできないものになるのではなかろうか。
あなたが死ねばたすけられる命はない。
いのちをたすけるのはいのち。
いのちがあってこそべつのいのちをたすけられる。
まずはたすかるいのちをたすけること。
それが最優先。
ひとをたすけることは次善かどうかではなく、なによりも優先はあなたがたすかること。
いきる。
核心はここにある。
哲学の息吹きがあるのではなかろうか。





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